その63

1905年4月4日

 

1905年(明38)4月4日、横浜港から米国船「コレア丸」が出航した。目指すはサンフランシスコ。船上には早稲田大学野球部の一行13人の姿があった。
 時は日露戦争の真っただ中で、翌5月には東郷平八郎率いる日本海軍がロシアのバルチック艦隊を破っている。いわゆる「日本海海戦」である。
 戦時下での、約3カ月にわたる渡米は日本の野球チームによる初の海外遠征であった。国難時でもあり、遠征実現への足取りは難航したが野球部長・安部磯雄の、国への説得、奔走が功を奏す。のちに「日本野球の父」とたたえられる安部ならではの快挙と言ってよい。
 安部をここまで遠征に固執させた背景を「早稲田大学野球部百年史」はこう、説明している。
 「明治三八年と云えば、本邦野球界の混沌たる時代であった。其の技術の幼稚なるは言う迄もない、世の理解にありては殆んど問題とはならない。野球を以て渡米する如きは、実に痴人の夢に過ぎなかった(中略)。真に日本野球界将来の計を樹立し得たりや否や、言を弄する迄もない」
 メンバーは主将で遊撃手の橋戸信、二塁手押川清ら。橋戸は後の社会人野球大会最優秀選手賞「橋戸賞」に由来する。押川は橋戸らと日本初のプロ野球チーム創設に尽力する。
 一行は4月29日の対スタンフォード大学戦を皮切りに米国西海岸を転戦、26試合を戦い、7勝19敗で帰国した。
 この遠征での収穫、「科学的野球技術」の習得は後の、日本野球の進化へ大きく貢献した。スクイズ、バント戦術の取得、二遊間の走者けん制、刺殺プレー、スライディングの採用などだが、大きかったのは投球術の進歩だった。
 この遠征で投手を務めたのは河野安通志(こうの・あつし)だが、1人で24試合を投げきったことで「Iron Kouno(鉄腕河野)」と相手から称賛された。今では珍しくはないがスローボール、ワインドアップの技術を伝えている。
 とりわけワインドアップ投法はファンを魅了したようで、画家・竹久夢二は09年(明42)に出版した処女作でベストセラーとなった「夢二画集―春の巻」で河野に触れている。夢二の装丁・挿絵は当時、一世を風靡(ふうび)し、例えば13年(大2)に実業之日本社から出版された「野球美談」(東草水・有本芳水著、竹久夢二画)ではポスターから表紙まで手掛けている。ユニホーム姿で、投球する野球選手を描いたモデルは河野であったろう。
 4月4日―野球ファンはこの日を覚えていてもよい。近代野球のあけぼの、であった。
 球春到来―。