その53

御大恐るべし

 

 東京・調布市にあった明大野球部「島岡球場」が今月限りで、府中へ移転する。オールド・ファンにはおなじみ、御大(おんたい)こと島岡吉郎監督(89年死去=享年77)の蛮声? がとどろいた名所である。アマチュア野球を担当したことがなかったから、監督との接点は数えるほどしかない。しかし、その印象は強い。
 1984年(昭59)、横浜大洋(当時)はドラフト1位で明大・竹田光訓を獲得した。ヤクルトへ入団した同じ明大・広沢克実と並ぶ目玉選手で、ドラフト会場で竹田の交渉権獲得を知った担当記者の私は「こりゃ、しばらく忙しくなるぞ」と腹をくくった。何しろ注目の逸材だけに、しばらくは新聞の1面を書かされる。それがいかにもおっくうで、「やれやれ」とため息をついたものである。
 ところが1面どころか、連日とんだ入団交渉に巻き込まれた。なにしろ御大の起床時間は早い。午前4時には起き出し、練習は午前5時(午後5時ではない)。真冬の朝は遅い。真っ暗闇の中で、キャッチボールが開始され(当然だが選手も、ボールも闇の中で、しかし人の気配と、かけ声だけが聞こえる。今思っても不思議である)、太陽が昇り始めた6時からは紅白戦になる。
異様な練習ぶりに目を丸くしたが、これに合わせるように、入団交渉もこの「島岡球場」で午前4時〜5時となった。さすがに電車の乗っていては間に合わないから、前夜会社に泊まり込み、ハイヤーで駆けつける。
 御大は球場バックネット脇の用具室で寝起きしている。ベット3個分ぐらいのスペースで、本来ならグラウンド整備用具をしまうための施設である。合宿所内には監督用の一戸建てもあるのだが、御大は食事時に選手用食堂へ姿を現す程度で、ほとんど使用しない。しかも無類の甘味好き。スカウトはよく知ったもので、前夜から新宿中村屋のあんパンを大量に買い込んで、交渉に備えた。
 ある時、交渉1時間前(午前3時である)に島岡球場へ着いた。さすがに御大もまだ就寝中のようで、開けっ放しの合宿所のドアから真っ暗な壁づたいに室内に入り込んだ。
 「カリッ、カリッ」
 食堂と思われる場所から、奇妙な音が聞こえる。壁の、照明のスイッチに手が触れた。「パチン」と電源を入れると、次の瞬間腰を抜かしそうになった。御大が、直立不動のマネージャーを従え、テーブルで中村屋のかりんとうを食べていた。
 すでに衰えていたのだろう。
マネージャーの肩を借りて立ち上がったとき、ズボンに失禁の跡が見えた。