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その52 海ゆかば |
今年のこのコラムは追悼記事ばかりが並ぶ。昨年末仰木彬が急逝し、年が明けた1月2日、近藤貞雄が亡くなった。2月9日は藤田元司。球界にとってかけがえのない人たちが彼岸へ渡った。 そして、5月26日。アマチュア野球の総本山、日本野球連盟の会長を長年務めた山本英一郎が逝った。さほどつきあいがあったわけではないが、一瞬の接点にもこの手の大物は何かしらの印象を残す。 小柄な老人(会った頃は、おそらく80歳前後であったと思う)だったが、その背筋はいつもピンと伸び、矍鑠(かくしゃく)そのものだった。「いい姿勢ですね」と声をかけたら、我が意を得たりとばかり元気の良い返事が戻ってきた。 「君、僕は海軍出身だよ」 昔、明治政府が軍隊を作った時、大ざっぱに言えば陸軍はドイツ(プロシア)型、海軍はイギリスを手本とした。紳士の国とはイギリスの代名詞だが、たとえ軍隊といえども「紳士」を尊ぶ空気がここにはあった。終戦から時は久しいが、山本の言う「海軍」はピンと伸びた背筋となってその後の人生を支えてきたのだろう。 毀誉褒貶はともかく、会長時代には世界のアマチュア球界と積極的に交流し、IBAF(国際野球連盟)第一副会長に就任、野球の五輪採用に貢献し、強豪キューバには何度も足を運び日本球界とのパイプ役を果たした。一方、国内のプロアマ問題解決にも尽力した。島国根性丸出しの日本プロ野球機構幹部とは大違いの仕事ぶりは、決して軍国主義的な解釈ではなく、ただ公のために自己犠牲を払ったという意味で、山本の言う海軍ならずとも「海ゆかば」の精神に満ちあふれている。 訃報を伝える紙面を読むと、王貞治のコメントが目を引く。「(早実時代の)春の甲子園で優勝したときに審判を務められ『王君、王君』と言ってかわいがってもらった」。山本が高校野球、都市対抗の審判員であったことは不覚にも知らなかった。 詩人・寺山修司のこんな記述を、ふと思い出した。 「野球は、大の男たちがホーム(家庭)へ駆けこむのを競うゲームだが、サードはいつも、ホームへ駆けこんでゆく男のうしろ姿を見送っているのだ」 審判生活の長かった山本は三塁塁審を務めたこともあったろう。三塁手同様ホームに駆けこんでゆく男の背中を眺めたに違いない。そして自らの、ホームへ駆けこむ時がきた。 享年87歳。自宅のテレビをつけたまま、椅子に腰掛けて眠るように息を引き取った、と日刊スポーツには書いてある。 (敬称略) |