7月5日、元ラジオ日本アナウンサー島碩弥(ひろみ)さんが脳幹部出血で亡くなった。享年68歳。年輩の方なら、この人の声に聞き覚えがあるかもしれない。野球中継ではずいぶん鳴らしたものである。各紙に掲載された訃報を読んでいたら、毎日新聞にこんな経歴が追加されていた。「1960年6月15日、安保条約反対の学生らが国会に突入し、東大生の樺美智子さんが死亡した事件の際、国会前から衝突の模様を生々しく伝えた」。野球中継が専門とばかり思っていたから、この数行は故人の意外な一面を見た思いがした。
島さんとは小学生時代からの「付き合い」になる。多摩川の土手にラジオ日本(当時はラジオ関東と呼んだが)の電波塔がそびえており、その鉄塔を見上げる形で私の自宅があった。簡単な部品と、鉄製の洗濯ばさみで作れたゲルマニュウム・ラジオが子供たちの人気で、イヤホーン越しに島さんの声がよく聞こえてきた。下町に「川崎・蒲田ミスタウン」という盛り場があり、島さんの番組のスポンサーだった。番組名も、話の内容もすっかり忘れてしまったが、一つだけ子供心に残った話――「上野動物園と象さん」がある。
私が現場記者になって島さんと会ったとき、その話をしたら「そうですか。わたしもあの話が大好きなんです」と目を細めた。
実は5月24日付、朝日新聞夕刊にこの話が掲載されている。奈賀悟さんという方が書いた小さなコラムである。引用させていただく。
――上野にゾウがいなかったのは通算13年間しかない。122年前の開園当初や、3頭のゾウが餓死させられた太平洋戦争末期の「猛獣処分」のあとである。空っぽのゾウ舎は空襲に備え、ひつぎの保管所となった。
当時の福田三郎園長代理は最後の1頭の様子を書き残した。〈午前二時起立、二時十分頃ヨリ動キ始メ餌ヲネダル、二時三十分大小便ヲナシ小便ヲ身体ニフキカケル、腹鳴アリ、五時四十分両足ヲコスル〉
前脚を折り鼻を上げては餌をねだった。飼育係は号泣した。ゾウ舎の平和は私たちの平和。――
「戦争。悲しいことです。野球のできる時代はよい時代です」。島さんはそう言った。訃報にあった安保闘争の実況はそんな心根がしみこんだ中継だったのだろう。
小柄で、前歯が不揃いで、ちょっと口臭がきつかった、あの顔がよみがえってきた
合掌
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