その31
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「牧野茂」

 

 私だけの幻想だろうか。
 4月2日の開幕カード、巨人対阪神戦。テレビカメラが巨人ベンチをなめる。
 その一角に、確かに「牧野茂」がいた。V9時代、川上哲治を支えた名参謀といえば誰もが知っている。
 「まさか」と身を乗り出したら、それは堀内恒夫、新監督だった。「なんだか牧野さんに似てない?」と同僚に声をかけたら「うーん、そういえば」との反応である。
 牧野さんが亡くなったのは昭和59年12月2日。その日、川上哲治さんと藤田元司さんは地方で行われた野球教室に出かけていた。
 訃報を受けて、私は羽田空港へ向かった。
 到着ロビーで川上さんを出迎え、ハイヤーに押し込み、世田谷の自宅へ車を走らせた。車中で談話をとり、追悼記事を書き上げる。これが仕事だった。
 「牧野さんが亡くなられました」
 すでにどこかで情報を得ていたのだろう。川上さんは小さく頷いた。「クワッ、クワッ」。早朝の鶏のようにのどを鳴らし、「ウオー」と吠えて、泣いた。事情を知らない運転手が思わずブレーキを踏んだ。
 嗚咽で途切れ途切れになった言葉をつなぎ合わせる。
 「牧野はな…。牧野は決して、決して茶坊主ではなかった」
 こんな意味合いだった。「川上さんに取り入って出世した」。
 たぶんに妬みからきた誤解だったが、一部の報道はこの表現、「茶坊主」を好んで使った。
 確かに老獪なところもあり、一筋縄ではゆかぬ人物ではあった。正直、肌の合う人間ではなかった。しかし「茶坊主ではない」。これしか川上さんは言わなかった。
 牧野さんの最大の功績と言われたのがドジャース戦法の導入だった。
 組織野球、チームプレーこそが野球を制す。それまでの力任せの野球からの一大転換だった。
 そしてそれにふさわしい選手を集め、育てた。柴田、黒江、土井、森、そして堀内がそろって黄金時代の基礎ができあがった。
 川上野球の根幹であり、「茶坊主」と呼ばれた男の仕事である。
 ローズ、小久保。清原、ペタジーニ、江藤。これが近年巨人が集めた選手、だ。
 牧野茂が亡くなって、今年で20年になる。私が見たのは、やはり幻想だろうか。