その29
長嶋さんが
教えてくれたもの

 

 知人が脳こうそくで倒れたのは2年前だった。
 ありがちな話だが、独身の彼はよく飲み、よく食べた。典型的な肥満体質で血圧はもちろん高かった。身体に異状が起きたのは深夜、午前1時ころだった、という。それまで手足に軽いしびれを感じていたが、ほっておいた。突然、目の前が暗くなり、これまで経験したことのない、激しい頭痛。身の危険を感じ、携帯電話で救急車を呼ぶ。
 程なくサイレンが聞こえ、救急隊員がドアをノックする。カギはかかったままだ。が、起き上がることができない。ガチャ、ガチャとノブが鳴る。目と耳だけが音を追った。
「ここにいる」
 叫んだ。いや、叫んだつもりだったが舌がもつれて言葉にはならなかった。熱い唾液を感じた。
 「何だ、いたずら電話だったのか。引き揚げるか」
 ドアの向こうで救急隊員の声が聞こえる。もし発見されなければ、待っているのは「死」だけだ。力を振り絞った。手元に携帯電話があった。それを握りしめ、最後の力で投げつけた。
 「ゴン」
 鉄製のドアが低く響いた。
 「人がいるぞ!」
 隣接する部屋を通じ、ベランダを伝って救急隊員が部屋に入ってきた。もうろうとした意識が憶えているのは救急車の天井だけである。
 半年後、知人は復帰した。ただ、「死」を身近に感じた恐怖、一人暮らしの孤独感は残っている。
 長嶋茂雄さんが脳こうそくで倒れた。幸い病後の経過は良好だ。
 3月4日のあの朝、発見したのは通いのベテラン運転手だった。
 定時になっても起きてこない主人を2時間待ち、寝室のドアを開けた。
 その間、何が起きていたかは分からない。ただ、「死」につきまとわれた、孤独な時空間に長嶋さんは居た。
 そして、その家に家族は一人もいなかった。
 核家族化、老齢社会。周囲の耳目を集めるスーパースターもまた、世間にありがちな環境で存外に生きているのかもしれない。
 68歳。決して若い年齢ではない。