その28

マラソンの音

 

 あぁ、泣いている、と思った。
 3月14日の名古屋国際女子マラソン。レースが30キロを越えたころ、先頭を行く土佐礼子の「声」がテレビ桟敷に聞こえてきた。カラ竹が風にふかれて鳴るようにヒュー、ヒューと響く。およそ肺呼吸とは思えない。腹筋の振動が胃袋の空気を押し上げ気管をふるわせている、そんな乾燥しきった「声」だった。
 テレビのスポーツ中継もずいぶん進化した。ランナーのすぐ脇をオートバイが併走する。後部座席のカメラが横顔を大写しで捉え、音も拾う。だから聞こえてくるし、見えてもくる。サングラス下の涙も。
 マラソンランナーは生きた精密機械である。機械でもなければ2時間そこそこで42・195キロを走りきれない。ただし、レースの終盤になれば話は別だ。
 走りが軋む。「勝ちたい」という一念だけが走りの修正に応じてくれる。だから土佐礼子はヒュー、ヒューと口を開け、泣きながらゴールインした。アテネに行きたかったのだ。
 その翌15日、高橋尚子が五輪落選会見に応じた。テレビの、大映しされた顔を会社のデスク席でながめていた。
 泣きはしないかというのはこちらの勝手な妄想だが、言葉の隅に標準語ではない、生まれ育った岐阜の訛り(なまり)が珍しくのぞいた。
 笑顔の会見ではあったが、心では泣いていたのだろう。彼女だってアテネに行きたかったのだ。
 まぁ、選考には様々な経過もあったのだろうし、聞きたくない噂も耳にした。いろいろな人達の思惑も絡んでいる。「勝ちたい」との一念だけでは許さないのが、レースに参加しない大人達の風景である。
とあれ、
「人生とは泣きながら歩いてゆくものだ」
 そんなところだろう。