今年は年賀状を例年の半分に絞らせてもらった。
五十という年回りもあり、これまでのようなおつき合いはいずれ叶わぬと考えたし、昨年末に18通もの「欠礼状」を頂いたこともある。
その中に、2年連続で「欠礼状」をくださった方がある。
Aさんはかつてプロ野球界の重鎮を務めた。外交官出身で英国に駐在した経験があったから、野球の起源ともいわれるクリケットに造詣が深かったし、南海電鉄の経営に縁があったから、大阪球場時代のホークスファンでもあった。
なぜか可愛がってもらい、都内の一等地にある高級マンションに取材と称して上がり込んで薫陶(くんとう)を受けた。
大のビール好きで、大型冷蔵庫の中には世界各国のそれがならんでおり、片っ端から飲ませてもらった。「なんていい飲みっぷりだこと」と喜んでくれたのはAさんの夫人だった。
一昨年の暮れ、Aさんから「欠礼状」を頂いた。
夫人が健康を害し、老夫婦2人だけの生活は心許ないので、都内の施設に移るとの連絡だった。
加えて、「これを機会に」これまで結んできた交誼に一区切りをつけたい、とあった。昨年暮れ、年賀状を書きながらそれを思いだし、年頭の挨拶を遠慮した。
しかし、その数日後にまたも「欠礼状」が届いた。夫人の訃報(ふほう)で、末尾には「結婚六十一余年にわたりわがまま頑固な私を支え三人の子供を立派に育ててくれました。私は自分の最後には一言ありがとうというつもりでおりましたが、順序が逆になってしまったのが心残りです」とあった。
年賀状はともかく、寒中お見舞いでも、と葉書の表書きを見直したが、差出人の住所はない。気骨な、と思わず吹き出しそうになったが、すぐに悲しくなった。
年賀状来る数減りし今年かな
明治の大実業家・渋沢栄一の子息、渋沢秀雄の句であったか、と記憶している。
|