9月14日、巨人川相昌弘が引退した。記者会見を終えたその夜、東京ドームで試合があった。スタンドに「人生犠牲バント」の横断幕が見えた。
「犠牲ねぇ。何とかならないのかねぇ、その表現。暗いよね、犠牲って」。
英語のサクリファイスを直訳して野球用語にするから、こういうことになる。知人の言葉も頷ける。
9月23日、ダイエー王貞治監督の続投が決まった。「これもまた犠牲というべきか」と言ったのは担当記者である。
買収騒動に席巻された今シーズン。確か王監督の契約は今年限りであったはずだが、球団は騒動に忙殺され、後任人事に着手する余裕すらなかったろう。
「球団のこともあって、次の人間(監督)をどうするかとなった場合に、見あたらないというのもある」という王監督の言葉は一瞬不遜に響くが、中内オーナーの素朴に喜ぶコメントを聞けば納得できる。
「来年もやると言ってくれて嬉しい」。もちろん選手があっての球団だが、「王がやめた」となれば空気も一変する。
買収話は最悪のシナリオへ向け大きく展開するだろう。監督としての手腕はもとより、「王」という名前は球団が買収話に吹き飛ばされないための「重し」である。だから続投であり、担当記者は「犠牲」という言葉を使う。
もっとも、当の本人にそんな感覚はないだろう。「野球で育ったものはね、そりゃぁ、死ぬまでユニホームを着ていたいものなんだよ。ユニホームを脱いじまったら、自分の置き場がない。いつまでもグラウンドに立って、球界のために働いていたいものなんだ」。
かつて浪人時代、王さんからこんな言葉を聞いた。それが巨人であろうと、ダイエーであろうとユニホームは第二の皮膚であり、自分を育ててくれた球界への思いは掛け値無しの、刷り込まれた思想である。
納得ずくの「重し」である。「犠牲」ではない。
|