プロ野球のキャンプが始まった。担当記者も現地に入り、約1ヶ月間、チームとともに寝起きすることになる。
多くの野球記者はその在任中、セリーグ、パリーグなど数球団を受け持つものだが、私の場合は巨人担当ばかりで、他球団といえば横浜の2年間だけである。だから思い出といえば巨人、ということになる。
担当して1年目の1981年(昭56)、取材現場に出たのも初めてで、何もかもが目新しかった。
この年は現監督、原辰徳が入団。おまけに私が原番である。
他社は全てベテラン記者が担当、えらく心細かったのを覚えている。
仕事は厳しく、1週間もたたぬうちに、右耳上の髪の毛が白くなった(今でもある)。ストレスによる若白髪、というわけだ。
たしかにしんどい毎日だったが、そこは若さで乗り切れた。
1日の仕事が終われば、車で30分ほどの宮崎市内、繁華街まで出撃し、明け方に選手宿舎に直接帰還。
ロビーのソファーがベット代わりで、早朝散歩に出てきた当時の藤田元司監督に叩き起こされた。「またか、お前!」というわけである。
もっとも、こんな生活を繰り返していれば、会社から貰った軍資金、つまり出張費も底がつく。キャンプ途中で、はや帰京のための航空運賃まで飲み干してしまった。
そこで一宿(毎宿?)の恩義のある藤田監督に願い出た。「キャンプが終了すれば、球団の荷物を東京に返送するはず。そのトラックの助手席に便乗させていただけませんか」というわけだ。
その年の巨人は宮崎を早めに切り上げ、米国ドジャースのキャンプ地・ベロビーチに移動した。
先輩記者は同行したが、新米の私は二軍担当で宮崎に残留した。
さて、キャンプも最終日、恐る恐る球団のトラックに近づき、運転手に事情を説明すると「監督から申しつかっております」。
宮崎・日向からフェリーに揺られて足かけ2日がかりの帰京である。助手席には焼酎の一升瓶が用意されていた。
「監督からの差し入れです」。
やるじゃないか。以来、私は熱烈な藤田ファンとなった。
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