昭和28年に生まれた。だから無論、戦争の経験はないが、街の風景に焦土を感じたことはある。
入り組んだトタン屋根と、ささくれ立ったその端切れはいかにも剥けかけた瘡蓋(かさぶた)のようであり、その波形の下の空気は陽にあぶられ、フライパンの上にいるような暑さだった。
傷痍軍人のいるトンネルを抜けると、アスファルトを敷き詰めた大きな広場があり、近くの駅舎にはグリーンのペンキで厚化粧をほどこした、小さな私鉄が2本の線路を遠く郊外へ足を伸ばしていた。
この広場に午後7時過ぎになると大人たちが三々五々集まり、大きな塊となった。
子供の身体で、足もとをかき分け進むと、そこには4本の鉄柱があり、その上に街頭テレビがあった。
確かにプロ野球は再興されていたはずだが、画面に映し出されていたのはいつもプロレス、力道山だった。
もっとも入場料も、球場までの片道運賃も持たぬ子供にとって、プロスポーツとの接点を持てたこの空間と時間は至福だった。
金髪のレスラーをなぎ倒す力道山の空手チョップは、復興を目指すこの国の将来を予測させてくれたし、「日本人」であることを強く認識させてくれた。
6月4日のW杯、日本対ベルギー戦。
この日は会社に居らず、すぐ近くの寿司屋で雑談にふけっていた。
店内はラジオの中継が流されていたが、訪れたのは我々以外、一組の年輩者だけだった。
それを見越した店主がカウンターの内側に置いた小型テレビを盗み見ながら寿司を握った。
「2−2、引き分けたけど勝ち点1ですよ」。店主の言葉で試合がドローになったことを知った。
帰りがけ、乗替えのターミナル駅前広場に立った。
ビルの側面に据え付けた大きな画面にスポーツニュースが流れた。
ゴールのシーンが何度も映し出され、しばし立ち止まった。
みんないい顔だ。よかったな、と思う。
子供の頃、こんな思いで街頭テレビを見上げたっけ。古びた記憶が戻ってきた。
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